胆沢小山 葦名堰北の斜坑内部公開
2021 11 23
一か月前の10月24日(日)、胆沢平野土地改良区企画で葦名堰北の斜坑内部の見学会が開催されました。
普段は入ることのできない葦名堰へ!

葦名堰最終湧出口。
葦名堰史跡保存会会長の若槻さんから北の斜坑へ向かう前に説明を頂きました。
本来、葦名堰は衣川の増沢から胆沢二の台まで穴堰や平堰からなるおよそ24㎞の堰となっています。
今では使われてはいませんが、約400年前人々が何のために大事な水源をどのようにつなげてきたのかを知る大事な資料となっています。

説明を聞き、奥にある北の斜坑へ
盛り上がった小さな丘は堰を掘っていく際に内部から運び出された泥や砂でできたもののようです。

内部へ。
急で滑りそうな階段をゆっくりと。油断したら転んでしまいそうです。
足元も壁も当時のままなのでぼこぼことして壁を触ると手に白い砂がついてしまいます。

天井もぼこぼことしています。
この先には150cmほどの水が溜まっているため通ることができませんでした

削った跡もはっきりと見えますね。

当時は蝋台🕯に灯された小さな明かりだけで作業をしていたわけです。
気が遠くなりそう…

今回公開されたのは60m。葦名堰全体の長さはこの400倍ほどとなります。

その距離を60年ほどかかって作り上げた先人たちの苦労を思うと、水がどれだけ大切な資源なのかが分かります。
今、美味しいお米や野菜など食べられるのも昔の人々の苦労があったからこそのものなんですね。
あらためて感謝し生活をしていこうと思います。
普段は入ることのできない葦名堰へ!

葦名堰最終湧出口。
葦名堰史跡保存会会長の若槻さんから北の斜坑へ向かう前に説明を頂きました。
本来、葦名堰は衣川の増沢から胆沢二の台まで穴堰や平堰からなるおよそ24㎞の堰となっています。
今では使われてはいませんが、約400年前人々が何のために大事な水源をどのようにつなげてきたのかを知る大事な資料となっています。

説明を聞き、奥にある北の斜坑へ

盛り上がった小さな丘は堰を掘っていく際に内部から運び出された泥や砂でできたもののようです。

内部へ。
急で滑りそうな階段をゆっくりと。油断したら転んでしまいそうです。
足元も壁も当時のままなのでぼこぼことして壁を触ると手に白い砂がついてしまいます。

天井もぼこぼことしています。
この先には150cmほどの水が溜まっているため通ることができませんでした


削った跡もはっきりと見えますね。

当時は蝋台🕯に灯された小さな明かりだけで作業をしていたわけです。
気が遠くなりそう…

今回公開されたのは60m。葦名堰全体の長さはこの400倍ほどとなります。

その距離を60年ほどかかって作り上げた先人たちの苦労を思うと、水がどれだけ大切な資源なのかが分かります。
今、美味しいお米や野菜など食べられるのも昔の人々の苦労があったからこそのものなんですね。
あらためて感謝し生活をしていこうと思います。
葦名堰「北の斜坑」内部へ
2021 10 09
約400年前長い年月をかけて完成された葦名堰。
その葦名堰の内部を見学できる企画が決定!
土砂の排出と空気の取り入れ口としての役割をしていた「北の斜坑」
なかなか見ることができない人の手だけで作られた内部をこの機会にご覧になってください。

♯葦名堰~江戸初期、水路開鑿の面影を残す斜坑~
開催日 10月24日(日) 雨天決行
定 員 先着40名 親子連れ大歓迎!
参加条件 中学生以上70歳以下の方
開催時間 ①10:00~10:20 ②10:30~10:50 ③11:00~11:20 ④11:30~11:50 ⑤12:00~12:20 ⑥12:30~12:50 ⑦13:00~13:20 ⑧13:30~13:50 計8回
申込期限 令和3年10月22日(金)
先着順につき定員になり次第申し込みを終了します。
服装 動きやすい服装と長靴、カッパをご用意の上参加ください。
コロナウイルス感染症対策として、マスクの着用をお願い致します。
ヘルメット、懐中電灯は貸出致します。駐車場は15台分ほどあります。
参加者全員に新米6号と図書カード1,000円分をプレゼント!!
申し込み・お問合せ
胆沢平野土地改良区
奥州市水沢字北田140-1
0197-24-0171
胆沢平野土地改良区HPはこちらから
その葦名堰の内部を見学できる企画が決定!
土砂の排出と空気の取り入れ口としての役割をしていた「北の斜坑」
なかなか見ることができない人の手だけで作られた内部をこの機会にご覧になってください。

♯葦名堰~江戸初期、水路開鑿の面影を残す斜坑~
開催日 10月24日(日) 雨天決行
定 員 先着40名 親子連れ大歓迎!
参加条件 中学生以上70歳以下の方
開催時間 ①10:00~10:20 ②10:30~10:50 ③11:00~11:20 ④11:30~11:50 ⑤12:00~12:20 ⑥12:30~12:50 ⑦13:00~13:20 ⑧13:30~13:50 計8回
申込期限 令和3年10月22日(金)
先着順につき定員になり次第申し込みを終了します。
服装 動きやすい服装と長靴、カッパをご用意の上参加ください。
コロナウイルス感染症対策として、マスクの着用をお願い致します。
ヘルメット、懐中電灯は貸出致します。駐車場は15台分ほどあります。
参加者全員に新米6号と図書カード1,000円分をプレゼント!!
申し込み・お問合せ




明神下遺跡現地一般公開
2021 07 19
今月初め、胆沢若柳の下堰袋の明神下遺跡の発掘調査の一般公開がありました。
今回公開されたのは昨年11月に近隣住民に公開された位置より西側の部分となります。

掘立柱建物跡
主に倉庫としてとして使われたようですが今年度調査で見つかったもので11棟分。昨年のものと合わせると22棟。

竪穴式住居跡
住居として建てられたもの、鍛冶工房や小型倉庫として使われたものも。昨年からの分も合わせると90棟分。
建物跡から伸びた細い穴は煙突部分となります。

工房跡と思われる場所から発見された須恵器の大甕

土師器の坏なども多く発掘されました。

こちらは多くの鉄製品。
ここに移り住んだ目的は鉄が多く取れたからなのでは?

明神下遺跡の発掘も8月下旬までとなりますが、約一年半で多くのことも分かったのですが謎も多いようです。
身近な場所で見つかった事で多くの方の関心が集まり、大人になってもときめく
ことができて楽しいと話してくれた方もいました。
ロマンを求めていつまでも。いいですねo(^▽^)o
今回公開されたのは昨年11月に近隣住民に公開された位置より西側の部分となります。

掘立柱建物跡
主に倉庫としてとして使われたようですが今年度調査で見つかったもので11棟分。昨年のものと合わせると22棟。

竪穴式住居跡
住居として建てられたもの、鍛冶工房や小型倉庫として使われたものも。昨年からの分も合わせると90棟分。
建物跡から伸びた細い穴は煙突部分となります。

工房跡と思われる場所から発見された須恵器の大甕

土師器の坏なども多く発掘されました。

こちらは多くの鉄製品。
ここに移り住んだ目的は鉄が多く取れたからなのでは?

明神下遺跡の発掘も8月下旬までとなりますが、約一年半で多くのことも分かったのですが謎も多いようです。
身近な場所で見つかった事で多くの方の関心が集まり、大人になってもときめく

ロマンを求めていつまでも。いいですねo(^▽^)o
明神下遺跡発掘調査 現地説明会へ
2020 11 13
先日、4月から発掘調査を進めてきた若柳の明神下遺跡の現地説明会が行われ、県内初の平安時代の飾りなどが多数出土したことも分かり多くの参加者が集いました。

場所は於呂閇志胆沢川神社を下りた北側になります。
今回、(公財)岩手県文化振興事業団 埋蔵文化センターの方に説明頂きました。

初めに説明されたのは竪穴式住居跡。
奥に見える積み重なった石はかまどの跡。
その他にも使われていたものがきれいに残っている状態で珍しいようでした。

かまどの場所には煙が住居の外に出るように作られていることが分かり、かまどのほかにも火を使っている痕跡があり住居ではなく工房だったのではないかと…
想像は広がるばかりです。

これは陥し穴と呼ばれる狩りをするときに獲物を落とす穴になります。
10以上の陥とし穴が東西に延びているのでこの辺りが獣道だったのかもしれないですね。

黒く見えるのは何だろう?
木が燃えたあとなんだそうです。
このようなものも残っているというのが不思議でなりません。
この木が何の木なのか、火災なのか故意なのかこれから調査するそうです。

そしてこれらが今回、明神下遺跡から出土したものの一部となります。
土師器、須恵器、貴重な灰釉陶器、緑釉陶器、大理石の石帯なども発見されたことから貴族階級の人たちが住んでいた可能性も出てきたようです。

そしてこちら、お墓も発見されました。
頭にかぶせていた内耳鉄鍋や「永楽通宝」7枚も見つかり、こちらは戦国時代から江戸時代のあたりのお墓ではないかとの予測がなされていました。

身近な場所でとても貴重なものが見つかったことにより来年度も奥の調査が続くようなので、調査結果を楽しみに過ごそうと思います。


場所は於呂閇志胆沢川神社を下りた北側になります。
今回、(公財)岩手県文化振興事業団 埋蔵文化センターの方に説明頂きました。

初めに説明されたのは竪穴式住居跡。
奥に見える積み重なった石はかまどの跡。
その他にも使われていたものがきれいに残っている状態で珍しいようでした。

かまどの場所には煙が住居の外に出るように作られていることが分かり、かまどのほかにも火を使っている痕跡があり住居ではなく工房だったのではないかと…
想像は広がるばかりです。

これは陥し穴と呼ばれる狩りをするときに獲物を落とす穴になります。
10以上の陥とし穴が東西に延びているのでこの辺りが獣道だったのかもしれないですね。

黒く見えるのは何だろう?
木が燃えたあとなんだそうです。
このようなものも残っているというのが不思議でなりません。
この木が何の木なのか、火災なのか故意なのかこれから調査するそうです。

そしてこれらが今回、明神下遺跡から出土したものの一部となります。
土師器、須恵器、貴重な灰釉陶器、緑釉陶器、大理石の石帯なども発見されたことから貴族階級の人たちが住んでいた可能性も出てきたようです。

そしてこちら、お墓も発見されました。
頭にかぶせていた内耳鉄鍋や「永楽通宝」7枚も見つかり、こちらは戦国時代から江戸時代のあたりのお墓ではないかとの予測がなされていました。

身近な場所でとても貴重なものが見つかったことにより来年度も奥の調査が続くようなので、調査結果を楽しみに過ごそうと思います。

小山飛行場
2019 10 14
稲刈り時期の9月末
小山飛行場の勉強に若柳小学校6年生が訪れていました。

本日の先生は いさわ散居ガイドの会の鈴木会長です。
特攻専用の秘匿飛行場として計画された小山飛行場。
特攻とは何か、戦争で男手がない中、君たちより少し大きいくらいの中学生2千数百人があつめられ3か月余りの間に完成させたこと。
その作業は重労働の中、不衛生で、シラミで身体中かゆくなったり、食糧もわずかでお腹が空きすぎて近くの民家に食べ物を求めたり大変なものだったことなど詳しく説明していました。

児童たちの後ろに広がる田んぼが滑走路があったところです。
秘匿飛行場としてつくられたので、上空から飛行場に見えないように、民家や樹木にキャスターをつけて滑走路のうえに配置したいたことをきくと、児童たちからは「えぇー!」と驚きの声が上がっていまいた。

終戦直前に完成した小山飛行場でしたが、小山飛行場に飛来したのはわずか数機だったそう。
自分たちの住んでいる近くに戦争の跡があったとは知らなかった児童たち。
今日学んだことを後日発表する時間があるそうです。
ぜひその時間もお邪魔したいと思います。
幻の小山飛行場
胆沢まるごと案内所ブログ→こちらもご覧ください。
小山飛行場の勉強に若柳小学校6年生が訪れていました。

本日の先生は いさわ散居ガイドの会の鈴木会長です。
特攻専用の秘匿飛行場として計画された小山飛行場。
特攻とは何か、戦争で男手がない中、君たちより少し大きいくらいの中学生2千数百人があつめられ3か月余りの間に完成させたこと。
その作業は重労働の中、不衛生で、シラミで身体中かゆくなったり、食糧もわずかでお腹が空きすぎて近くの民家に食べ物を求めたり大変なものだったことなど詳しく説明していました。

児童たちの後ろに広がる田んぼが滑走路があったところです。
秘匿飛行場としてつくられたので、上空から飛行場に見えないように、民家や樹木にキャスターをつけて滑走路のうえに配置したいたことをきくと、児童たちからは「えぇー!」と驚きの声が上がっていまいた。

終戦直前に完成した小山飛行場でしたが、小山飛行場に飛来したのはわずか数機だったそう。
自分たちの住んでいる近くに戦争の跡があったとは知らなかった児童たち。
今日学んだことを後日発表する時間があるそうです。
ぜひその時間もお邪魔したいと思います。
幻の小山飛行場
胆沢まるごと案内所ブログ→こちらもご覧ください。
葦名堰内部へ
2019 09 06
胆沢小山の葦名堰が一般公開されたので行ってきました

約400年前、60年ほどの歳月をかけ完成された葦名堰。
本来は衣川の増沢から胆沢の二の台までの24kmほどの長い距離ではありますが、崩落などのため通ることができない部分がほとんどのようです。


公開されたのは最終湧出口から100メートルほど。
通常であれば内部は150センチほどの水で満たされているそうですが、一般公開の都度ポンプで汲みあげ通行できるようにしているそうです。

今回は葦名堰史跡保存会の副会長の菅原様に案内して頂きました。
湧出口も崩落したそうですが、5年前に修復作業をしたそうです。

さあ、内部へ。
しばらくは腰をかがめてしか進めず、少しでも頭を上げると「コツッ!」と頭をぶつけてしまうほどの低さです。
そしてひんやりとしています

腰が、、痛い(つД`)ノ
400年前の人はこのくらいの背丈だったのだろうか?

奥に見える木の棒、400年前のままだそうです

見えづらいですが、削れてボロボロなんです。
この辺りからしばらく高い天井が続きます。

頭上に石を重ねた場所があったのですが、
もしかしたら神棚のようなものが飾られていたのではないかと…

内部には多くの小さな穴のようなものが掘られています。
ロウソクのようなものをおくためだったのでしょうね。

ここから横の出口へ。
横の道は、中の石や泥を運ぶための出入り口だったようです。
その中の土などを外へ積んだので盛り上がって山のようになっているのでは?とのことでした。

ここも非常に細く天井も低いため体勢を低くしていくのですが、コウモリが飛びまわりビクビクしながら通ります。
出口が見えてきましたね。



時間にして30分ほどでしたが400年前に作られた堰内部は本当に人の手だけで作られたのかと驚くものでした。
削りやすいやわらかい岩のようでしたが、それでもかなりの苦労があり、そして技術があったのだろうとの保存会の皆さんの様々な話を聞かせて頂きました。
昔からそれだけ農業が大事なものだったとの話に納得。
水はやはり大事な資源なんだとの再確認もできた1日でした。
葦名堰(二ノ台堰)のリーフレットが完成!!
2018 02 20
毎年、見学会を開催し地域の宝『葦名堰』の保存・継承活動に取り組んでこられた
『葦名堰史跡保存会』さんが、この度『400年記念事業実行委員会』を立ち上げ、
その事業の一環として葦名堰のリーフレットを作成されました✨


衣川の増沢から小山二ノ台まで通水していた葦名堰、
出来上がったリーフレットには、
地形を生かして通水された堰のマップや各隧道の呼び名なども記されています。
2018年2月24日(土)午前には
胆沢区小山二の台地区振興会館で
葦名堰開削四百年座談会が開催されます。

葦名堰四百年をたどると題される講演には、
講師に奥州市 元学芸員の佐々木いく子氏と
葦名堰史跡保存会顧問の高橋岑生氏をお迎えします。
どなたでもご参加できますので、ぜひお出かけください。
お問い合わせは
葦名堰史跡保存会事務局 高橋さんへ。
☎0197-47-1975(お間違えのないようお願いします)
『葦名堰史跡保存会』さんが、この度『400年記念事業実行委員会』を立ち上げ、
その事業の一環として葦名堰のリーフレットを作成されました✨


衣川の増沢から小山二ノ台まで通水していた葦名堰、
出来上がったリーフレットには、
地形を生かして通水された堰のマップや各隧道の呼び名なども記されています。
2018年2月24日(土)午前には
胆沢区小山二の台地区振興会館で
葦名堰開削四百年座談会が開催されます。

葦名堰四百年をたどると題される講演には、
講師に奥州市 元学芸員の佐々木いく子氏と
葦名堰史跡保存会顧問の高橋岑生氏をお迎えします。
どなたでもご参加できますので、ぜひお出かけください。
お問い合わせは
葦名堰史跡保存会事務局 高橋さんへ。
☎0197-47-1975(お間違えのないようお願いします)
南都田浅野の稲荷社
2018 01 23
暮れには例年より多く感じていた降雪ですが、
年明け後の降雪は数日程度で、一面真っ白な雪景色とはいいがたい今年の1月です。

前々から気にはなっているけれど、近くまで道路があるのかどうかもわからず、
ひとり田んぼの中を歩く勇気もなく、指をくわえて眺めている場所が多くあります。
ここもそのひとつ、道路からは、守られるように木々に囲まれたこのお社が見えます。

ここは南都田の浅野の稲荷社です。
稲荷社は元は穀物や農耕の神で、
この社も安永風土記の農耕神の中に含まれているようです。
境内には
嘉永三年の雷神様の石碑が1基、あると資料にはありますが、
もっと多くの石碑が並んでいるので、
他の場所にあった碑も置かれたのかもしれません。

上の部分が落ちてしまった鳥居は大正2年に奉納されたもののようです。
天保年間と明治時代の棟札が残ります。
稲荷社からあぜ道を西に数十メートル進むと
水田の畦畔にポツンと1基、石碑が建っています。

碑は
『庚申供養碑』で安永五年八月二十一日の日付が刻まれています。
何名かの名前も刻まれているようですが、判読は不明。

資料には(旧道だったのか)と追記されています。
年明け後の降雪は数日程度で、一面真っ白な雪景色とはいいがたい今年の1月です。

前々から気にはなっているけれど、近くまで道路があるのかどうかもわからず、
ひとり田んぼの中を歩く勇気もなく、指をくわえて眺めている場所が多くあります。
ここもそのひとつ、道路からは、守られるように木々に囲まれたこのお社が見えます。

ここは南都田の浅野の稲荷社です。
稲荷社は元は穀物や農耕の神で、
この社も安永風土記の農耕神の中に含まれているようです。
境内には
嘉永三年の雷神様の石碑が1基、あると資料にはありますが、
もっと多くの石碑が並んでいるので、
他の場所にあった碑も置かれたのかもしれません。

上の部分が落ちてしまった鳥居は大正2年に奉納されたもののようです。
天保年間と明治時代の棟札が残ります。
稲荷社からあぜ道を西に数十メートル進むと
水田の畦畔にポツンと1基、石碑が建っています。

碑は
『庚申供養碑』で安永五年八月二十一日の日付が刻まれています。
何名かの名前も刻まれているようですが、判読は不明。

資料には(旧道だったのか)と追記されています。
谷地中の馬頭観音堂
2017 12 26
南都田谷地中の国道397号沿いにある馬頭観音堂です。
安永風土記に記載のお社のようですが、創建は不明のようです。


境内には、
昭和二十五年建立の『鸕鷀草葺不合尊』碑と
明治二十八年の『馬頭観音』碑が二つ並びます。
『鸕鷀草葺不合尊』は胆沢に10基ほどあるうちのひとつです。
村棟梁の佐々木某氏のほか14名の名も刻まれています。
寒さの中では、
なんど、厳しい冬をこの地で過ごしてきたのか、
どのくらいの歴史を抱えているのか、大方の社や碑がそうであるように
今ではだれにもわかりません。
と、なんだか悲愴的な思考に陥ってしまいますが、
あらゆる命がキラキラ輝く季節にその姿を認めれば、
きっと見え方も受け止め方も違ってくることでしょう。
冬は始まったばかりですが、早くも暖かい季節を待ち望んでしまいます(;^ω^)
安永風土記に記載のお社のようですが、創建は不明のようです。


境内には、
昭和二十五年建立の『鸕鷀草葺不合尊』碑と
明治二十八年の『馬頭観音』碑が二つ並びます。
『鸕鷀草葺不合尊』は胆沢に10基ほどあるうちのひとつです。
村棟梁の佐々木某氏のほか14名の名も刻まれています。
寒さの中では、
なんど、厳しい冬をこの地で過ごしてきたのか、
どのくらいの歴史を抱えているのか、大方の社や碑がそうであるように
今ではだれにもわかりません。
と、なんだか悲愴的な思考に陥ってしまいますが、
あらゆる命がキラキラ輝く季節にその姿を認めれば、
きっと見え方も受け止め方も違ってくることでしょう。
冬は始まったばかりですが、早くも暖かい季節を待ち望んでしまいます(;^ω^)