葦名堰は来年400周年を迎えます。

2017 08 15
小山二の台、葦名堰涌出史蹟で開催された葦名堰見学会に行ってきました。
170806葦名堰2
170806葦名堰1
8月6日(日)、会場には20名以上の参加者の皆さんと史蹟保存会のメンバーの皆さんが集結。
多くは、近くに葦名堰があるのは知っているが、実際に穴堰を見たことがないという方々でした。
170806葦名堰3
保存会のメンバーが先頭と最後尾につき、最終湧き出しの穴堰から入り、
150mほど先にある斜坑から地上にでてきます。
170806葦名堰4
最初は腰を屈めて進み、しばらくすると普通に歩ける高さほどに掘られているそうです。
堰は通常腰まで水が溜まっている場所があるので、数日前からポンプで水を吐き出して
この日を迎えています。
堰の中はライトを設置し、ろうそく棚があるところにはろうそくを立て堰内を照らします。
170806葦名堰6
私は地上を歩いて、北の斜坑で待ち伏せします。

北の斜坑で待っていると遠くから人の話す声がゴンゴンと響いて聞こえてくると
そろそろ出てくる頃。追い立てられるように蝙蝠も飛び出してきます。
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堰は気温が17度程度ということでずいぶん涼しいそうですが、地上に出てくると30度近くです。
170806葦名堰8
堰内の見学を終えた皆さんはしばらくその場で話し込んでいるようでした。
170806葦名堰9

葦名堰史蹟保存会(若槻会長)は来年、葦名堰開削の400周年記念事業を計画しており、
これまでも見学会等を実施してきました。
この日の見学会も参加者からは先人の偉業に感嘆の声が多く聞かれ、
この貴重な水文化遺産の保存活動に大きな理解が得られたようでした。

小山二の台の馬頭観音堂

2017 08 06
8月6日(日)奥州胆沢カヌー競技場では
カヌースラローム競技が開催されます。
ぜひご観戦ください!!


観音前スクールバス待合所のとなりの馬頭観音堂です。
170727馬頭観世音1
鱒淵馬頭観世音菩薩の分霊が祀られています。
鱒淵馬頭観世音菩薩を調べてみると
宮城県登米市鱒淵地区にある華足寺のご本尊が鱒淵馬頭観音ということで、
由来は坂上田村麻呂が、この地で死んだ愛馬を葬ったと伝えられているようです。
華足寺は日本最古の馬の霊場と言われており、青森・岩手・福島などの馬産地からの
多くの参詣があったと、ありました。
参考:宮城県登米市東和町 米川地域振興会HP http://miyagi-yonekawa.com/

昭和二十九年の額が掲げられ、二ノ台分堂とあります。
170727馬頭観音3
境内にはたくさんの碑があり、最も古いもので寶暦十年(1760)の庚申供養碑と
同じく寶暦の文字だけが読み取れる梵字碑がありました。
170727馬頭観音4
そしてここには昭和三十三年建立のウガヤフキアエズノミコトの碑がありました。
昭和というと最近の事のように感じますが、33年はもう、60年ほど前になります。
170727馬頭観音2
170727馬頭観音5
この馬頭観世音菩薩がいつからここに祀られているものか定かではありませんが、
生活の中心が馬で、馬がいなければ耕作も運搬も何もできなかったから家族と同じように
馬を大切にしてきた人々の思いを、この馬頭観音堂や区内に多く残される馬頭観音碑からも
見ることができます。

小山 伊勢堂にも『うがやふきあえずの尊』

2017 07 27
7月24日(月)付の小山伊勢堂の馬頭観世音碑と山神碑の道路向かいにも
大切に祀られている石碑群がありました。
170713伊勢堂1
ここに並んでいるのは、金華山、古峯山、鸕鷀草葺不合尊で、
案内板にはそれぞれの碑の説明があります。
170713伊勢堂2
一部抜粋すると
明治も中頃に入って世の中が落ち着くと寺社仏閣への参詣旅行が盛んになるが
誰しもが行ける訳でもなくその為に何人かで講中を組織して積み立てた金で
二、三人ずつの代参詣が行われました。全員が参詣すると更なる功徳を積むとのことで
供養碑を建立したという。
と『供養碑の由来』に書かれています。
1170713伊勢堂3
『胆沢町の石造物』を開くと
何十年か前の道路工事で現地に移す(昔の場所は、不明)とありましたが、
この案内板には
昭和五十八年の道路拡張工事に依り現在地に移転する。と書かれていました。

そしてここにも、ウガヤフキアエズノミコトの碑があり、
地域の茅葺き職人の安全祈願の供養として・・・大畑平から久保、
大萩地区と広範囲に渡り三十八名の講員をもって建立した、
今はその職人も少数になっている。

と説明されています。

結びには 東日本大震災に触れており、

東日本大震災と大津波で三陸では多大な被害となり
土地や家屋とともに多くの人命を失い忘れられない年となった、
合せて先人の願いの記念碑や供養碑をも凡て失うと言う 
改めて当地においても石に刻まれし
先祖の祈りの心を後世に伝えんが為ここに由来の看板を作成した。

平成二十四年 三月   地主


この地方では、祈りの心が生きています。

小山 伊勢堂の人々の祈り

2017 07 24
小山伊勢堂の市道沿いに赤い鳥居が見えます。
山神と馬頭観世音の石碑が並び、看板も設置されていました。
170713伊勢堂8
170713伊勢堂6

看板には、
七十年記念碑詩文
当地域は農耕の発展とともに馬の産地として苦楽をともにし
一喜一苦の時代も皆心を一つに、感謝をし互いの生活を
営み信仰の発展を見るに至りました。


とはじまり、昭和十三年に建立された馬頭観世音の建立に協力した人々の
名前が記されています。
御縁日は九月十七日

また、その隣に昭和二十二年に奉建されたとあるのは山の神の石碑です。

御縁日には祭りや映画を建て、旅行をし長く続けてまいりましたが、
時代の流れと共に互いの生活も成り立ち文化信仰に対する考え方も
変わりつつある今日に置いて過ごすこと七十年と言う一つの節目を
迎えることができましたことを感謝申し上げます。・・・・平成十九年晩秋 発起人

とありました。この時に建立された記念碑あわせて三基の石碑が並んでいます
170713伊勢堂5

地域に多く残されている石碑の多くには同じように何名もの名が連なっていることからみれば、
ここ伊勢堂の石碑に限らず、多くの場所で地域の皆さんが一緒になって石碑を建立し
信仰してきたのだと思います。

発起人や地主さんが中心となって、
たくさんの人が賛同し、拠り所となる地を設けてコミュニティが保たれてきたんですね。

赤堰の幸ノ神社

2017 07 20
小山赤堰を流れる寿安上堰の傍、堰に背をむけるように幸ノ神社があります。
140602寿安堰1
写真の中央から右に目を移すと杉木立のなかに黒い石碑群がみえます。
170713さいのかみ7
幸ノ神社側からみると寿安上堰にかかる橋の欄干が見えますね。

幸ノ神社は道祖神が祀られています。
祭日は四月三日です。

昔は境界に、邪霊悪疫の侵入を防ぎ、道行く人を災難から守るために
塞(サイ)神が祀られていました。
こちらの幸(サイ)の神も同じ目的で祭られているものかと思います。

並んでいる石碑は

左から

石祠

文政六年 三月十二日  馬神

文久元年 十二月十九日 馬頭碑  

 お社

昭和五十七年 四月三日 建之 畜霊供養塔 です。
170713さいの神2

第18回の胆沢劇場「幸の松騒動記」の看板が建っています。
170713さいの神3

幸ノ神社をあとにして振り返ると
DSCN6745 (480x360)
こんなに和む風景がひろがっていました。

相撲追善供養碑が若柳にも。

2017 07 04
胆沢区若柳堰袋の国道沿いには相撲追善供養碑が建てられています。
江戸時代に建立されたこの供養碑は天保の年号が刻まれています。
(背の低いほうが相撲追善供養碑です)
170703相撲4
この追善供養碑は、伊勢ノ海部屋の関戸親方の妻加乃の供養碑で、
伊勢ノ海部屋の弟子の盛山庄左エ門の子、友碇綱五郎とその弟盛石十五郎が
胆沢の若柳村や新里村などから賛助を得て建てられたものということです。
170703相撲1
伊勢ノ海部屋の弟子の盛山庄左エ門は伊勢ノ海部屋に一時所属した弟子だったが、
当時の番付面にその指呼名が見えないので帰郷して地方力士の育成発展に
尽くされたと思われる。
と町史に記載されています。
170703相撲2

石碑には

伽陀云 伊勢ノ海加乃追善 
の文字の他に四つの句が刻まれています。
伽陀云とは、仏徳または教理を美しく讃める詩ということらしいです。

区内に残される相撲関連の碑は7基は確認されているようです。
相撲は昔からみんなが楽しみにしているスポーツだったのですね。

小山 丑転の馬頭観世音碑

2017 06 30
小山 丑転の市道沿いに並ぶ馬頭観世音碑が2基。
170629馬頭観世音1
ひとつは明治の文字が刻まれますが、いくら探しても「胆沢町の石造物」の中に見当たらず、
詳細が分かりません。もうひとつの馬頭碑も同じく。
170629馬頭観世音3
大きいほうの石碑には、よく見ると馬の姿が浮かび上がってきます。

調査もれか何かで記載漏れとなっているのでしょうか、ざんねんです。
ここは若柳と小山の境で、若柳にも北・南丑転があるようです。

胆沢の地名・・報告書の
小山の丑転(ウシコロバシ)の項をひらくと
・・・・低湿地帯をはさんで、若柳地区の丑転と小山地区の丑転とが向かい合っている形になる。
一説 - 字丑転50の北東にスズ(湧水)があり、そこで牛に水を飲ませた。つまり休ませたことから
生まれたちめいではないか、と。牛が転がりおちたこともあった、と。

馬ではなく牛なんだ・・・となんだか不思議な気がします。

ウガヤフキアエズノミコト・・・屋根葺き職人の守護神

2017 06 23
胆沢区若柳の於呂閇志胆沢川神社の境内、ゲートボール場の北側に並ぶ石碑群。
1706221.jpg
中に、『鸕鷀草葺不合尊』と刻まれた石碑が。漢字が難しすぎて読めません。
『ウガヤフキアエズノミコト』と読むそうです。
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胆沢区内には10基ほど確認されていますが、大正四年から昭和丗三年まで建立されています。
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胆沢町史には
・・・・昔、九州宮崎の鵜戸崎の断崖上にある鵜戸神宮に由来するもので、
航海中の舟の中に産気づいた女の神があった。あわてた舟の者共は、この女神(産婦)を助け度い一存から、なんとか、鵜戸崎に上陸して、この近くの鵜の鳥の羽でお産小屋の屋根を葺くことになり、一生懸命葺いたが、葺き終わらないうちに、とうとう近くの岩屋根の下でお産を終えた。以後この赤ん坊の名前は、屋根が葺き終わらないうちに生まれたので鸕鷀草葺不合尊といわれ、屋根葺職人の加護にあたった。この故事によって亡くなっても屋根葺職人の守護神としてまつられた。
・・・・農業の片手間に職人として活躍した人々が、大正四年から昭和丗三年まで屋根葺き仲間が建立したもので、深い信仰が伝えられていたものである。

と記載されています。  (胆沢町史Ⅲ第4章第五節1-40)

不思議な話の展開で、屋根葺き職人の守護神となったウガヤフキアエズノミコト。
屋根をおおうことを「葺(ふく)」というようなので、
茅葺き屋根が少なくなったいまでも、
屋根葺き職人さんたちの守護神として信仰されていることと思います。

『ちらくえん』があるお社

2017 06 22
胆沢区若柳、鳳凰寺の北にある桜の木に囲まれたこのお社、
花見の時期にはとても綺麗だろうと想像できます。

そういえば前にもこのお社について調べてみたんですが、
熊野社?で間違いない?と自信が持てずそのままだったのです。
170619社
もう一つの謎は、お社の東側に『ちらくえん』と看板があること。
この場所についてはもう少しちゃんと調べてなければならないことだらけです。
170619ちらくえん

まだ若いカラスが枝に止まっていて親ガラスを呼ぶものだから、
親ガラスは怒ってギャーギャー騒ぎ始めるし、怖い怖い(´;ω;`)

仙北街道 野がしらの追分碑

2017 06 12
栗駒焼石ほっとライン、
おろせ広場から数百メートルの山側にひっそりと建っている
『仙北街道下嵐江入口』の石碑。仙北街道を考える会によって設置されたものです。
170606のがしら1
山入りと称された山越えの始まりは下嵐江でした。
170606のがしら2
ここから山道を進み、杉林を抜けたところに『野がしら』と呼ばれるところがあります。
入口の石碑から約500mほどで到着します。
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仙北街道が考える会が設置した『野がしら』の標柱とともにある2基の石碑が
『野がしらの追分碑』です。

大きいほうの石碑は
 文政二
西宮大神宮
 八月二十三日 
  右仙北之道
  左加子山
 当初万五郎六十六迄四十三年諸々売買
 仕候処此度禁宜池奉供養也  
   水沢石工清蔵

170606のがしら6
『加子山』はかね山のことで、
現在は『渋民ノ銀山』『金山鉱山』などと呼ばれていますが、
江戸時代にはあった渋民沢沿いの鉱山のことと云われます。
ここ、野がしらの追分から渋民沢方面への道が続いていたことを示すものですが、
その道は今はやぶの中です。

もう一つある石碑には

 明和二
      みぎせんほくみち
南無阿彌陀佛
 四月一日
      ひだりかね山みち


 こちらは大きいほうの石碑よりさらにふるいもので1765年のものでしたが、
西宮大神宮碑ばかりに気を取られていて、
帰ってきてから、こちらも追分碑だったことを知ったというテイタラク(;д;)

ちなみに西宮大神宮碑は、兵庫県西宮市の夷社に関する造塔とのこと。

ここから先、仙北街道をとおって秋田県へは約17キロの道のり。
気が遠くなるような山越えです。
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