ウガヤフキアエズノミコト・・・屋根葺き職人の守護神

2017 06 23
胆沢区若柳の於呂閇志胆沢川神社の境内、ゲートボール場の北側に並ぶ石碑群。
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中に、『鸕鷀草葺不合尊』と刻まれた石碑が。漢字が難しすぎて読めません。
『ウガヤフキアエズノミコト』と読むそうです。
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胆沢区内には10基ほど確認されていますが、大正四年から昭和丗三年まで建立されています。
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胆沢町史には
・・・・昔、九州宮崎の鵜戸崎の断崖上にある鵜戸神宮に由来するもので、
航海中の舟の中に産気づいた女の神があった。あわてた舟の者共は、この女神(産婦)を助け度い一存から、なんとか、鵜戸崎に上陸して、この近くの鵜の鳥の羽でお産小屋の屋根を葺くことになり、一生懸命葺いたが、葺き終わらないうちに、とうとう近くの岩屋根の下でお産を終えた。以後この赤ん坊の名前は、屋根が葺き終わらないうちに生まれたので鸕鷀草葺不合尊といわれ、屋根葺職人の加護にあたった。この故事によって亡くなっても屋根葺職人の守護神としてまつられた。
・・・・農業の片手間に職人として活躍した人々が、大正四年から昭和丗三年まで屋根葺き仲間が建立したもので、深い信仰が伝えられていたものである。

と記載されています。  (胆沢町史Ⅲ第4章第五節1-40)

不思議な話の展開で、屋根葺き職人の守護神となったウガヤフキアエズノミコト。
屋根をおおうことを「葺(ふく)」というようなので、
茅葺き屋根が少なくなったいまでも、
屋根葺き職人さんたちの守護神として信仰されていることと思います。

『ちらくえん』があるお社

2017 06 22
胆沢区若柳、鳳凰寺の北にある桜の木に囲まれたこのお社、
花見の時期にはとても綺麗だろうと想像できます。

そういえば前にもこのお社について調べてみたんですが、
熊野社?で間違いない?と自信が持てずそのままだったのです。
170619社
もう一つの謎は、お社の東側に『ちらくえん』と看板があること。
この場所についてはもう少しちゃんと調べてなければならないことだらけです。
170619ちらくえん

まだ若いカラスが枝に止まっていて親ガラスを呼ぶものだから、
親ガラスは怒ってギャーギャー騒ぎ始めるし、怖い怖い(´;ω;`)

仙北街道 野がしらの追分碑

2017 06 12
栗駒焼石ほっとライン、
おろせ広場から数百メートルの山側にひっそりと建っている
『仙北街道下嵐江入口』の石碑。仙北街道を考える会によって設置されたものです。
170606のがしら1
山入りと称された山越えの始まりは下嵐江でした。
170606のがしら2
ここから山道を進み、杉林を抜けたところに『野がしら』と呼ばれるところがあります。
入口の石碑から約500mほどで到着します。
170606のがしら3
仙北街道が考える会が設置した『野がしら』の標柱とともにある2基の石碑が
『野がしらの追分碑』です。

大きいほうの石碑は
 文政二
西宮大神宮
 八月二十三日 
  右仙北之道
  左加子山
 当初万五郎六十六迄四十三年諸々売買
 仕候処此度禁宜池奉供養也  
   水沢石工清蔵

170606のがしら6
『加子山』はかね山のことで、
現在は『渋民ノ銀山』『金山鉱山』などと呼ばれていますが、
江戸時代にはあった渋民沢沿いの鉱山のことと云われます。
ここ、野がしらの追分から渋民沢方面への道が続いていたことを示すものですが、
その道は今はやぶの中です。

もう一つある石碑には

 明和二
      みぎせんほくみち
南無阿彌陀佛
 四月一日
      ひだりかね山みち


 こちらは大きいほうの石碑よりさらにふるいもので1765年のものでしたが、
西宮大神宮碑ばかりに気を取られていて、
帰ってきてから、こちらも追分碑だったことを知ったというテイタラク(;д;)

ちなみに西宮大神宮碑は、兵庫県西宮市の夷社に関する造塔とのこと。

ここから先、仙北街道をとおって秋田県へは約17キロの道のり。
気が遠くなるような山越えです。

さる山社への追分碑

2017 06 11
各所に残されている旧仙北街道の追分碑が下嵐江広場の石碑群の中にもあります。
無題
石淵ダムができる前は石淵野を通っていた仙北街道と猿岩のお宮への分岐点に建っていて、
石淵ダム建設によって③の石淵ダムのほとりの町道沿いに移されていたものです。
さらに胆沢ダムの建設で、その町道も沈んでしまうことから現在のおろせ広場にほかの石碑と共に
移転されています。
170606おろせ2
寛政元酉年 八月二十三日 南無阿彌陀佛の文字の両脇に
右ハ をろせい通りせんふく道

左ハさる山社通り と刻まれます。 
170606おろせ1
170606おろせ3
猿岩の隧道の手前(東)からが表参道
隧道の向こう側からが裏参道ということでしたが、
裏参道の方が登りやすいということで近年は裏が使われていたようです。
現在はぐるっとおろせ広場を回って
猿岩橋を渡り、林道を進むとお宮まで50mの位置まで車で行くことができます。
息切れの心配もありません。

兎口の梵字碑

2017 06 06
若柳兎口の旧道沿いに並ぶ

170605兎口2
右から
馬櫪神 明治二十七年 午九月九日

山神 大正八年 九月十二日 発行者高橋六三郎外十六名

牛頭神 昭和廿八年九月九日 
です。
170605兎口1

台座から一段低いところにも一基の石碑があることに気がつきました。
170605兎口3
彫られている文字は判読できませんでしたが、
帰って調べてみると

元文三年 十一月十二日 の年月日は 1738年のこと。

刻まれているのは梵字で刻んだ光明真言というもの。

資料によると唱え方は
オン アボキャベイロシャナウ マカボダラ マニ ハムドマ ジンバラ ハラバリタヤ ウム ソワカ

意味は
ああ、大日如来よ 知恵と慈悲をたれて お救い下さい

というもの。

呪文のような真言をとなえ願ったのは、一切の罪障の除滅と極楽往生のようです。

尼坂の追分碑

2017 05 28
胆沢区南都田国分に仙北街道の追分碑が建っています。

広岡線の国分と尼坂のバス停の間、道路の北側にあります。
市指定有形文化財の標柱がありますし道路沿いなので見慣れた石碑だと思います。

にもかかわらず、
追分碑ね、はいはい♪ と流していて、ちゃんと調べていなかったことが判明(´;ω;`)
こういうことが結構あります。
170526国分道標1
この石碑から斜めに北に延びる細い道路が旧仙北街道ですが、
もともとこの石碑は旧仙北街道をもう少し西に進んだ交差点の角にあったもののようです。

背の高いほうが追分碑で

  右せんぼく道

南無阿彌陀仏

  南やまかい道

宝暦四年四月吉日 
施主 若柳村 巻右エ門

と刻まれます。

ここから南に入る『やまかい道』がないなーと思ったので、移動されたのなら納得。

旧仙北街道はこの先の交差点から右(北)に向かうということが分かります。
ちなみにこの追分碑は『尼坂の道標』と呼ばれているようです。
170526国分道標2
刻まれた文字が見ただけでは判別できません。長い年月の労苦を感じます。

追分碑の隣には甲子塔が並んでいます。
塔の字が出てこなかったので💦塔と記しました。

甲子塔とは 
甲子或いは子(ね)の日に、夜遅くまで起きていて大黒天の掛図などを礼拝し、
飲食歓談する行事による造塔、とあります。
ネズミが大黒天の使者とみていたことから祈りの日となったと解釈していいのでしょうか。
170526国分甲子塔
こちらは
天保十一年  
八月初七日

施主には数名の名が刻まれているようですが判読不明のようです。

フキの葉に隠れていたのは・・・やくしみちの石碑

2017 05 23
南都田の久須志神社、赤い鳥居の両脇に、大きな石碑が2対、久須志神社、薬師堂と書かれています。
この鳥居から東に数百メートルの森の端に謎の入り口を見つけました。
170519薬師堂1
小径の入り口に笠のとれた灯籠が見えたため
ここに道があると気がつきましたが、草や木の枝に隠された出入り口。
覗いてみると確かに道が続いています。
170519薬師堂6
『胆沢町の石造物』を開いてみると
この灯籠があるのは
南都田字化粧坂、薬師堂境内、表参道入口
とあります。そして、
灯籠一対
(右) 献燈
(左)薬師堂参道
とありました。昭和弐年四月八日の文字も。
それにしても、灯籠は一基しか確認しませんでした。倒れていたのかな(;'∀')

そしてこの灯籠とならんでフキの葉っぱに隠れていたのは2基の小さな石碑と説明板。
170519薬師堂4
170519薬師堂3
説明板には
薬師堂の道標
「やくしみち」の道標は、ここ化粧坂の薬師堂に通じる道々に建てられており、
町内ではほかに三基しられています。
掃部長者と佐用姫伝説で有名なここ化粧坂の薬師堂は、眼病に効があると、
仙台藩北半の人々の信仰を集めていました。
※石碑群の名称は、(左から)「馬頭観世音」碑、「道標」
と書かれています。

馬頭観世音碑は頭に梵字を配し
馬頭観世音 明治廿四歳 旧三月三日 小野氏
と刻まれます。
170519薬師堂5

道標には
けはいざか
やくしみち
とあり、江刺岩谷堂町柏屋大作他二名の文字も。
背面には文化十四年 丑 三月三日とあります。 
170519薬師堂7
文化十四年は1817年、江戸時代です。

今度、表参道を通って参拝してみたいと思っています。

幻の小山飛行場

2017 05 16
170512小山飛行場
胆沢区小山柴山に小山飛行場跡地の石碑が建立されています。

説明の碑には
『小山飛行場は、太平洋戦争の末期本土決戦に備えた特攻秘密基地として建設されました。昭和二十年四月から六月まで、県内外二十余校、二千数百名の高等、専門学校生、師範学校生、中学生、実業学校生の学徒動員により、長さ二千メートル幅六十メートルの滑走路が完成されました。わずか二機の着陸を見ただけで敗戦を迎えるに至りました。ここに動員学徒、在京胆沢町友会有志と地元有志により記念碑を建立し、この歴史を後世に伝えます。』とあります。

記念碑には
『小山飛行場跡地』と大きく刻まれます。

この飛行場については
建設当時の様子を綴った文集『幻の小山飛行場』が発刊されており、
その翌年にこの記念碑が建立されたということで、平成14年から15年のことかと思います。

オノトク前の馬頭観世音碑

2017 05 13
小山中油地、フレッシュオノトク前の交差点角にある馬頭観世音碑。
昭和十三年 旧九月十七日  地主 青沼氏による建立です。
170512オノトク前1
この交差点から南西に細い道が通り、奥に見えるのは不動尊堂です。
170512オノトク前2
由緒等には
祖母が成田不動尊に病気平癒祈願したところ、
ご利益があって堂宇を建てて不動尊をまつる。
と書かれていました。
赤い鳥居も建っていましたが、現在は倒れてしまいました。

この交差点を通るたびに気にしてしまう石碑とお堂、
調べてみることができてよかったです(〃▽〃)

二枚橋の愛宕碑

2017 04 03
向かって右は
馬頭観音で慶應年間に建立されたもの、この旧道沿いのほぼ同じ場所にあったそうです。
中央には 愛宕碑  これは小山分のもっと南の寿安堰沿いにあったもの。
左にも馬頭観世音、こちらは若柳分のもう少し東の旧道の傍。
別の場所にあった3碑が道路工事か何かで同じ場所に祀られるようになったものと思われます。
170317愛宕碑1
二枚橋、小山と若柳の境です。先日ご紹介した二枚橋の旧橋のすぐそば、
旧道沿いに建つ石碑です。
170317愛宕4
説明板には愛宕碑について記載されています。
 愛宕碑は火防・火伏の神として信仰されていた。
 この場所は寿安堰の下堰とと中堰の分岐点で二つの堰に橋がかがっていたことから、
 二枚橋の地名が生まれたと書かれています。

   寛政辰年
 愛宕碑
   晩秋二十四日      施主 長助他五名

170317愛宕碑3

ここにも旧道があります。となりに大きな道路ができて、もう使われていない道。
いまでもご近所の方は使っているのかな・・・馬はもう通らないだろうけれど、
犬の散歩とかで使われているといいな。
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