植えてはいけない言い伝えが安倍家に・・・

2014 08 31
この季節、畑には芋の子(里芋)のひときわ大きな葉っぱがイキイキと空を仰ぎ、
葉の上にポロロンと水滴を転がしていたりします。芋の子が食卓にのぼるのももう間もなく!!
140829芋の子1 140829芋の子2

秋がくれば、芋の子汁、芋の子会と当たり前のように食べるもの、行われる行事の主役級。
どこの家でも芋の子は必ず植えているお野菜と思っていましたが、
この芋の子を「植えてはいけない」との言い伝えが残る家がありました。

胆沢区若柳の一部の安倍(あんばい)の姓のお家です。

その理由とは・・・

大昔の戦の最中、安倍(あべ)氏が芋の子の茎や葉っぱを踏んづけてすべって転んだのだとか・・・
そのことが原因かどうか・・・安倍氏は戦に負けてしまいました。
以後、芋の子を植えてはいけないと安倍家には伝わっているのだそうです。

お話をお伺いした愛宕の安倍さん。嫁いできた時からおばあさんたちにそのように教わり、
畑には芋の子を植えていません。とのこと・・・
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この地方の歴史での大きな戦で安倍氏が登場するのは、
源頼義・義家親子と奥州の豪族安倍氏の戦いである前九年の役のころ。
胆沢区には前九年の役の際、源軍に追われる安倍氏の逃亡ルートが安倍の道として
伝えられており、各地に地名やゆかりの地として残ります。
そのひとつには地名として残る『大歩(おおあご)』があり、
胆沢区若柳の胆沢川沿い、源義家に追いつかれそうになった安倍貞任が
大股で歩いたことから『大歩』という地名になったと伝えられています。
その前九年の役の最中のことだったか、いつの戦の話であったか、
定かではありませんが、
先祖代々、芋の子を植えてはいけないという言い伝えが、
一部の安倍家には伝わっているそうです。
その伝わり方も『安倍貞任源義家』の戦いと限定されている話もあれば、
だれかはっきりとわからないけれど安倍氏のこと・・・をざっくりなお話も・・・
いずれにしても、芋の子ですべって転んだところは共通点・・・

また同じく若柳愛宕地域の加藤家(の一部)には同じような話ではありますが、
登場する人物が変わり、加藤清正が戦いの時~と、
芋の子の茎や葉っぱを踏んづけて転んだために、里芋を作ってはいけないとの
言い伝えがあるそうで、現在も芋の子は植えていないそうです。

みなさん、『ま、食べてはいけないってことではないからねぇ~』といい、
この言い伝えがあり芋の子を植えていないと知っている方々から、
たくさんのおすそ分けがあるそうなので、それほど困っていることでもないんだとか

この言い伝えも、半信半疑ではあるけれども、だめだよ、よくないことがおこるよって言われていることを
わざわざする必要もないからね~と笑ってお話してくれました。

真意のほどはわかりませんが、このお話がいつのころからか言い伝えられて
今でもその言い伝えを守り続けている方々がいらっしゃる、
芋の子を植えてはいけないお話でした。

市内イベント情報( 奥州市観光物産協会スタッフブログより)
アテルイの里温泉郷スタンプラリー2014
映画【リトル・フォレスト】の世界へ!

アフロ笹

2014 08 26
140822笹
見事な、アフロで・・・(✧≖‿ゝ≖)

曹洞宗香取山正福寺

2014 08 25
応永八年(1401)月庵良円和尚の開山で、
金ケ崎町永徳寺門末四百八ヵ寺の門首の立場にあって、三役寺として由緒あるお寺です。
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参道の両脇には六地蔵様が並び、手を合せる人々を迎えています。
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門前には古碑が並びますが、その一つに胆沢区内唯一の
『愛染塔』が建立されています。
文化六年(1809)九月廿六日 と刻まれています。

以下、説明板にある通り記します。

愛染塔
愛染明王への信仰を刻んだものです。愛染明王とは、
密教の戦いの守護神ですが、江戸時代には縁結びの神
としても信仰されました。
町内では唯一のもので、この信仰碑を建てた人は、
どのような経過の中で造塔にいたったのでしょうか。

※石碑群の名称は(左から)「御崎・塩釜・竹駒大明神塔」、
「愛染塔」、「三峰大権現・金毘羅大権現・秋葉大権現」


夏の味 盆の味 

2014 08 21
綺麗な琥珀色のプルンとしたこれ、”ところてん”です。
ところてんみそ漬け1
市販されているところてんの色とは違っていますが、それは『ところてんのみそ漬け』だから。

胆沢区若柳、昭和30年代くらいまでの話でしょうか、
昔は夏になると各集落を天草売りの人が回って歩いたので、
その人から天草を買い、各家でところてんを作ったのだそうです。

ところてん作りに取り掛かる頃になると
おばあさんやお母さんから『野ブドウ取ってこーい!!』との命をうけ、
子供たちは野ブドウ探しに走るんだとか・・・
この野ブドウというのは、本当は『エビヅル』という植物のようですが・・・
おそらく凝固作用のために用いたんじゃないかとおっしゃっていました。
天草と一緒に青い実を煮るんだそうです。

そうして煮た天草を濾す際には蕨のホダを何層にも重ねて濾したものなんだとか・・・
濾し器もなかった時代、様々な工夫を凝らして作られていたことが伺えます。

そして出来上がったところてんを今度はみそ漬けにして保存食に。

みそに唐辛子とところてんを漬け、2か月ほどで全体が琥珀色に。
ところてんはみそ味に漬かり、身もキュっとしまってやや歯ごたえも強くなった感じかも。
ところてんみそ漬け2
不思議なことにこのところてんのみそ漬け、
主に若柳のある地域では当たり前に作られていたそうですが、
その他の若柳、小山、南都田地域ではあまり聞いたことがないとか。

今ではところてんを作るご家庭は少なくなったようですが、
市販のところてんを買ってきて、みそ漬けを作っているご家庭はまだあるようです。

チャンスがあったら食べてみてください。ご飯がすすむお味です。

産直いさわあぐりキッズでは夏になると手作りのところてんが販売されます。
過去記事もご覧ください。
2013-08-08産直いさわ あぐりキッズの手作りところてん

丑転霊園の近くのため池

2014 08 18
なんだか恐ろしげなタイトルですが、ちっとも恐ろしい話じゃありません。

ここにも大切にされてきたため池があります、というお話です。(・ω≦)
胆沢区小山北大畑平、丑転霊園脇の細い道路を西に進むと
このような標柱とととも案内板があり、
ここが朴ノ木沢ため池、そしてこのため池についてわかっていることを知ることができます。
2014朴ノ木沢堤2
近づくと草むらから次々に聞こえる「ドボン」「ドボン」との水の音、大きなカエルが住んでいそうな、
自然のままのため池です。
2014朴ノ木沢堤3

2014朴ノ木沢堤1
案内板には下記の説明がありました。
朴ノ木沢堤
安永六年(一七七七)の「風土記御用書出」に「朴ノ木澤堤 此溜高壹貫八拾貮文」と
記されているので、今から二三一年以前に既に築かれていた堤であることがわかる。
いつ頃、誰が築堤したのかなど詳しいことは不明である。
昔から朴ノ木沢の高橋家、千葉家、佐藤家でこの溜池の水を利用してきているので
先祖代々、この堤の保全管理に携わってきたことと思われる。


ここ朴ノ木沢周辺ではこのような看板が各所に建てられていてとてもありがたいです。
地区の歴史を大切に伝えていこうという住民の皆さんの思いが伝わってきます。

大畑平校舎の地

2014 08 14
『昭和46年3月31日
胆沢第一小学校統合
につき閉舎する』

胆沢区小山字大畑平にあった『胆沢町立西堀切小学校大畑平分校』の跡地です。
現在は地域の公民館・集会所として使われている様子。

大畑平分校があった昭和40年代までのこの地を想像することは容易ではありませんが、
この小さな校庭に子供たちの声がにぎやかに響いていたのでしょう。
140731大畑平2

140731大畑平3 140731大畑平1

平成元年五月に建てられた
大きく拓魂と刻まれた碑には

「国破れて山河あり」昭和二十一年、敗戦に
よる混迷の中で、復員軍人、引揚者、地元
次三男は、食糧増産の施策に応え、茫漠たる
一の台の原野に立ち、開拓の夢に燃えた。
 鍬一丁で荒野に挑む開墾は、遅々として進
まず、労苦に報ゆる稔り僅か、極度の貧窮は、
離農者を生み、苦闘の星霜を重ねた。
 幸い、昭和三十五年、待望の開田計画が実
施され、機械力による山林原野の開発が進み、
胆沢川の水は導水路を淊々と流れ、田畑を潤
し豊かな恵みの大地に変えた。
 苦節四十五年、不屈の拓魂をもって困苦
に耐え、地元農家と協力融和して学校、保育
所を建て、電気、水道を布設し、文化の薫り
高き農村集落建設の夢を実現した。
 茲に開拓の歴史の一端を記し、同志一同の名を
連ね拓魂の意気を後世に伝えんと碑を建立する。

との碑文が添えられていました。

第十三回の胆沢町民劇場では『土』という題名で
この一の台開拓の物語が演じられました。

ここ大畑平、一の台にこのような歴史があったとは知らず、
いままで過ごしてきてしまいました。

胆沢にはこのような開拓の歴史もたくさん残されているようです。

そう思って眺める田園風景はよりいっそう大切なものに感じるかもしれません。


もう一つの碑は、『大畑平念佛剣舞之碑』です。
参考→2013-09-18 小山 神明神社例大祭 大畑平念仏剣舞を奉納

葦名堰史蹟一般公開に向けて

2014 08 11
胆沢区小山の葦名堰は、衣川増沢から取水し、
一首坂段丘の南斜面をとおり、約1.2㎞の隧道を抜けて、
昭和40年代まで小山二の台地域の水田を潤おしてきた、
約400年前に開削された農業用水路です。
現在も衣川の一部の受益地でこの堰が利用されています。
140803葦名1
140803葦名2 140803葦名3
平成に入って約30年ぶりに、この堰の調査保存活動が始まり、
約15年の歳月をかけ衣川側の受け込み、斜坑、
胆沢側の斜坑、湧き出しの整備が整いつつあります。
140803葦名4
8月3日(日)葦名堰史蹟保存会の皆さんによる穴堰調査に同行させていただきました。

湧き出し口は、葦名堰最後の隧道の出口、崩れないように木枠が組まれています。
140803葦名5 140803葦名6
腰を屈めてすすんだ先には直径1.5mほどの管がいれられ、
その先に高さ1.8m~2m、幅は1.5mほどあるでしょうか、
↓のように掘られたトンネル部分に出ます。
140803葦名8
本隧道は約1.2㎞の長さで、受け込み口まで続きますが、
現在は通り抜けることができないそうです。
湧き出しから約50mのあたりに地上に抜ける斜坑という道が掘られています。
これは空気の対流を作り出すための役割を担う換気口のようなものらしいのですが、
ここも↓のように人が歩くことができる大きなトンネルで約60mで本隧道から地上に出ます。
140803葦名9 140803葦名10
追い立てられるようにコウモリが出たり入ったりし始めると、
奥から調査してきた保存会のみなさんが出てきました。
堰にたまった水で太ももまでつかりながらの調査でした。
140803葦名11←斜坑から少し入ったところ。
斜坑は出入り口が崩れてしまっていたのを昨年の秋に保存会のみなさんの手で整備し直し、このように立派な出入り口になっています。
来年には一般の皆さんにも体験してもらえるようにと考えているそうです。
機械もなかった大昔、このような大事業を成し遂げた先人と
それを守ってきたこの地域の人々の功績を多くのみなさんに知ってもらいたいということでした。
この後皆さんは衣川側の受け込み口や斜坑の確認に向かっていきました。

今回の調査は、葦名堰史蹟保存会(若槻会長)のみなさんによって行われました。
秋には別区間の調査も行われるということです。

葦名堰史蹟保存会の皆さんには、
これまでも堰の踏査等でお世話になっています。
↓↓↓関連記事もご覧ください。
2013-05-14 史跡・旧跡水の歴史『葦名堰』を歩く・・・




松原山鳳凰寺参道の庚申碑

2014 08 07
若柳一本松 松原山鳳凰寺の参道に六地蔵さまと並んで『庚申碑』が建立されています。
享保四年(1719)の四月十八日建立の碑です。
庚申信仰は、人の体には三尸(さんし)というものが住んでいて、人の行いを監視してる。
庚申の夜、この三尸は眠っている人の体を抜け出して天帝に報告に行く。
天帝はその報告に基づいてその人の寿命を決定する。そこで、庚申の夜は徹夜して
三尸が体から抜け出すのを阻止しようというのが、庚申信仰で、
この夜は入浴して身を清め、庚申真言を唱えなどして夜を徹して無病息災、
商売繁盛を祈願し、飲食歓談していたということです。
今でも行われている所があるのかはわかりませんが、なにやら、楽しそうなもの。
140725石碑1 140725石碑2
この庚申の碑には文字の周囲に兎、鳥、猿、鶏の図も刻まれているらしいのですが、
その図ははっきりとはわかりませんでした。
140725庚申碑1
胆沢区内での庚申碑の建立は1800年ごろがピークで徐々に少なくなっていきます。

庚申(かのえさる)の夜もグーグー寝ている現代人、
三尸の虫は現代人のお腹には住んでいないのでしょうか?
それともせっせとその人の悪行を天帝に言いつけに行っているのでしょうか?
だとすれば、かなり寿命が短くなってしまったなぁ・・・と思うのは私だけでしょうか・・・
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