南部藩と伊達藩の藩境が北上に。

2017 12 03
胆沢から北上へ行く時によくとおる道、
さくらの湯の脇を通って道なりに行くと北上に入ります。
まもなく県道302号(旧広域農道)とぶつかって、高速の下を通ります。
その302号とぶつかる手前、
広く田んぼが広がる中にポツンと看板が設置されています。
国指定史跡南部領伊達領境塚です。
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農道のような道路が伸びていて、塚のようなものはみあたりませんが、
ここが南部と伊達の藩境だったようです。
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案内板には次のように記されていました。
国指定史跡 南部領伊達領境塚 
天正一九年(一五九一)、南部氏は北の方から南へ和賀郡・上閉伊郡まで、伊達氏は南から北の方へ、胆沢郡・江刺郡・気仙郡までを領有するようになった。
それまで郡界についてあまり問題にしていなかったのであるが、両領が境を接するようになってにわかに境筋が問題になり、事件も各所にたびたびおきた。地元の争いが両領の争いになり、幕府への訴えに発展した。老中職の立会いで絵図の上へ点を打ち、文書で申し合わせができたのは、寛永十八年(一六四一)十二月三日であった。
   翌年六月十日から両領役人の立会いで、絵図面にしたがって奥羽山脈駒ヶ岳から唐丹村桐ケ浦(現在の釜石市)まで要所要所に百二十余基の大塚とその間に多数の小塚を築いた。、さらに重要箇所は挟塚といって二つを一対にして築いた。
 このように大規模な藩境塚が、今なお現存しているところは全国的にも類がなく、わが国の行政史上重要な史跡である。
北上市教育委員会


みちのく民俗村や北上市相去には塚が残っている場所もあるようです。
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南部と伊達の藩境は相去で、その地名の由来には次のようなお話も残されています。

昔南部と伊達の藩境を決める際、
それぞれの城を同時刻に午に乗って出発し、
出会ったところを藩境としようと伊達の殿様が言いました。
そこで、南部と伊達の殿様は同じ日の同じ時刻に午にのって出発し、
出会った場所が、現在の相去の地であったと言います。

南部の殿様はずいぶんとのんびりで
伊達の殿様がずいぶん速足だったのは、
南部の殿様は午(ウマ)を牛(ウシ)と読み間違えて
牛にのってきたために、なかなか距離が稼げなかった為で、
南部の殿様はずいぶんと悔しがったそうです。
藩境を決める際に
この場所で会って、去ったので、相去という地名となったというお話でした。
もしも南部の殿様が午に乗ってきていたら、胆沢も南部藩だったかもしれませんね。

案内板によると
藩境の取り決めが付いたのは一六四一年の十二月三日、
376年前の今日だったんですね。今日は南部と伊達の藩境記念日です。
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