さる山社への追分碑

2017 06 11
各所に残されている旧仙北街道の追分碑が下嵐江広場の石碑群の中にもあります。
無題
石淵ダムができる前は石淵野を通っていた仙北街道と猿岩のお宮への分岐点に建っていて、
石淵ダム建設によって③の石淵ダムのほとりの町道沿いに移されていたものです。
さらに胆沢ダムの建設で、その町道も沈んでしまうことから現在のおろせ広場にほかの石碑と共に
移転されています。
170606おろせ2
寛政元酉年 八月二十三日 南無阿彌陀佛の文字の両脇に
右ハ をろせい通りせんふく道

左ハさる山社通り と刻まれます。 
170606おろせ1
170606おろせ3
猿岩の隧道の手前(東)からが表参道
隧道の向こう側からが裏参道ということでしたが、
裏参道の方が登りやすいということで近年は裏が使われていたようです。
現在はぐるっとおろせ広場を回って
猿岩橋を渡り、林道を進むとお宮まで50mの位置まで車で行くことができます。
息切れの心配もありません。

兎口の梵字碑

2017 06 06
若柳兎口の旧道沿いに並ぶ

170605兎口2
右から
馬櫪神 明治二十七年 午九月九日

山神 大正八年 九月十二日 発行者高橋六三郎外十六名

牛頭神 昭和廿八年九月九日 
です。
170605兎口1

台座から一段低いところにも一基の石碑があることに気がつきました。
170605兎口3
彫られている文字は判読できませんでしたが、
帰って調べてみると

元文三年 十一月十二日 の年月日は 1738年のこと。

刻まれているのは梵字で刻んだ光明真言というもの。

資料によると唱え方は
オン アボキャベイロシャナウ マカボダラ マニ ハムドマ ジンバラ ハラバリタヤ ウム ソワカ

意味は
ああ、大日如来よ 知恵と慈悲をたれて お救い下さい

というもの。

呪文のような真言をとなえ願ったのは、一切の罪障の除滅と極楽往生のようです。

尼坂の追分碑

2017 05 28
胆沢区南都田国分に仙北街道の追分碑が建っています。

広岡線の国分と尼坂のバス停の間、道路の北側にあります。
市指定有形文化財の標柱がありますし道路沿いなので見慣れた石碑だと思います。

にもかかわらず、
追分碑ね、はいはい♪ と流していて、ちゃんと調べていなかったことが判明(´;ω;`)
こういうことが結構あります。
170526国分道標1
この石碑から斜めに北に延びる細い道路が旧仙北街道ですが、
もともとこの石碑は旧仙北街道をもう少し西に進んだ交差点の角にあったもののようです。

背の高いほうが追分碑で

  右せんぼく道

南無阿彌陀仏

  南やまかい道

宝暦四年四月吉日 
施主 若柳村 巻右エ門

と刻まれます。

ここから南に入る『やまかい道』がないなーと思ったので、移動されたのなら納得。

旧仙北街道はこの先の交差点から右(北)に向かうということが分かります。
ちなみにこの追分碑は『尼坂の道標』と呼ばれているようです。
170526国分道標2
刻まれた文字が見ただけでは判別できません。長い年月の労苦を感じます。

追分碑の隣には甲子塔が並んでいます。
塔の字が出てこなかったので💦塔と記しました。

甲子塔とは 
甲子或いは子(ね)の日に、夜遅くまで起きていて大黒天の掛図などを礼拝し、
飲食歓談する行事による造塔、とあります。
ネズミが大黒天の使者とみていたことから祈りの日となったと解釈していいのでしょうか。
170526国分甲子塔
こちらは
天保十一年  
八月初七日

施主には数名の名が刻まれているようですが判読不明のようです。

フキの葉に隠れていたのは・・・やくしみちの石碑

2017 05 23
南都田の久須志神社、赤い鳥居の両脇に、大きな石碑が2対、久須志神社、薬師堂と書かれています。
この鳥居から東に数百メートルの森の端に謎の入り口を見つけました。
170519薬師堂1
小径の入り口に笠のとれた灯籠が見えたため
ここに道があると気がつきましたが、草や木の枝に隠された出入り口。
覗いてみると確かに道が続いています。
170519薬師堂6
『胆沢町の石造物』を開いてみると
この灯籠があるのは
南都田字化粧坂、薬師堂境内、表参道入口
とあります。そして、
灯籠一対
(右) 献燈
(左)薬師堂参道
とありました。昭和弐年四月八日の文字も。
それにしても、灯籠は一基しか確認しませんでした。倒れていたのかな(;'∀')

そしてこの灯籠とならんでフキの葉っぱに隠れていたのは2基の小さな石碑と説明板。
170519薬師堂4
170519薬師堂3
説明板には
薬師堂の道標
「やくしみち」の道標は、ここ化粧坂の薬師堂に通じる道々に建てられており、
町内ではほかに三基しられています。
掃部長者と佐用姫伝説で有名なここ化粧坂の薬師堂は、眼病に効があると、
仙台藩北半の人々の信仰を集めていました。
※石碑群の名称は、(左から)「馬頭観世音」碑、「道標」
と書かれています。

馬頭観世音碑は頭に梵字を配し
馬頭観世音 明治廿四歳 旧三月三日 小野氏
と刻まれます。
170519薬師堂5

道標には
けはいざか
やくしみち
とあり、江刺岩谷堂町柏屋大作他二名の文字も。
背面には文化十四年 丑 三月三日とあります。 
170519薬師堂7
文化十四年は1817年、江戸時代です。

今度、表参道を通って参拝してみたいと思っています。

幻の小山飛行場

2017 05 16
170512小山飛行場
胆沢区小山柴山に小山飛行場跡地の石碑が建立されています。

説明の碑には
『小山飛行場は、太平洋戦争の末期本土決戦に備えた特攻秘密基地として建設されました。昭和二十年四月から六月まで、県内外二十余校、二千数百名の高等、専門学校生、師範学校生、中学生、実業学校生の学徒動員により、長さ二千メートル幅六十メートルの滑走路が完成されました。わずか二機の着陸を見ただけで敗戦を迎えるに至りました。ここに動員学徒、在京胆沢町友会有志と地元有志により記念碑を建立し、この歴史を後世に伝えます。』とあります。

記念碑には
『小山飛行場跡地』と大きく刻まれます。

この飛行場については
建設当時の様子を綴った文集『幻の小山飛行場』が発刊されており、
その翌年にこの記念碑が建立されたということで、平成14年から15年のことかと思います。

オノトク前の馬頭観世音碑

2017 05 13
小山中油地、フレッシュオノトク前の交差点角にある馬頭観世音碑。
昭和十三年 旧九月十七日  地主 青沼氏による建立です。
170512オノトク前1
この交差点から南西に細い道が通り、奥に見えるのは不動尊堂です。
170512オノトク前2
由緒等には
祖母が成田不動尊に病気平癒祈願したところ、
ご利益があって堂宇を建てて不動尊をまつる。
と書かれていました。
赤い鳥居も建っていましたが、現在は倒れてしまいました。

この交差点を通るたびに気にしてしまう石碑とお堂、
調べてみることができてよかったです(〃▽〃)

二枚橋の愛宕碑

2017 04 03
向かって右は
馬頭観音で慶應年間に建立されたもの、この旧道沿いのほぼ同じ場所にあったそうです。
中央には 愛宕碑  これは小山分のもっと南の寿安堰沿いにあったもの。
左にも馬頭観世音、こちらは若柳分のもう少し東の旧道の傍。
別の場所にあった3碑が道路工事か何かで同じ場所に祀られるようになったものと思われます。
170317愛宕碑1
二枚橋、小山と若柳の境です。先日ご紹介した二枚橋の旧橋のすぐそば、
旧道沿いに建つ石碑です。
170317愛宕4
説明板には愛宕碑について記載されています。
 愛宕碑は火防・火伏の神として信仰されていた。
 この場所は寿安堰の下堰とと中堰の分岐点で二つの堰に橋がかがっていたことから、
 二枚橋の地名が生まれたと書かれています。

   寛政辰年
 愛宕碑
   晩秋二十四日      施主 長助他五名

170317愛宕碑3

ここにも旧道があります。となりに大きな道路ができて、もう使われていない道。
いまでもご近所の方は使っているのかな・・・馬はもう通らないだろうけれど、
犬の散歩とかで使われているといいな。

船戸?札堂?の観音堂

2017 03 30
小山の斉藤にあるお社は札堂観音堂。
本尊は馬頭観音で昭和6年の創建です。
その昔はこの前を流れる松ノ木沢を船が通っていてこの場所は船着き場で
人々の休息の場だったと町史はかたります。
170328船戸1
170328船戸6
しかしながらここにある説明板には『札堂』が転じて「ふなど」と呼ばれたという説もあると書いています。
170328船戸2
どっちでしょう?

また、布那土→船戸神=岐の神=久那土神→塞の神→  という解釈もあり
昔は布那土ではなくクナドと呼んだと云った人もいたそうなので、
小山村誌はこちらの説をとっているという記述もありました。
『斉藤』という地名も『さい』は塞ぐの意味で「塞の神」へつながる、
ということからここは境界で悪いものが入ってくるのを防ぐ場所と
関連付けることもできそうです。

そしてこの場所には、明治から昭和にかけて草競馬の馬場があったそうです。
看板にもありますが、
『当時の面影をしるよすがもありません』

お堂の裏手にまわるとたくさんの古碑がありました。
大きく立派な石碑には

戊辰戦死者之碑 とあり、
裏面には
仙台藩佐々備中家臣 三名の名前と

慶應四年八月二十七日 相馬笹町戦死
との文字が刻まれています。

碑は明治二十七年の建立ですので、二十年以上の時が過ぎてから建立されたもののようです。
170328船戸4
170328船戸3
170328船戸5
中には梵字が刻まれた享保年間の古碑も2基ほど並んでいます。
300年前の人々の祈りが石碑という形で現代に残っています。

もりだくさんの斎藤の札堂観音堂でした。

若柳 二枚橋の旧橋

2017 03 24
寿安下堰と中堰にかかっていた二つの橋の総称から、地名となり
明治以降字名となっている。寿安堰大改修によって橋跡になった。
現在もコンクリート製の橋だけが残っている。 と資料には記載されています。
170317二枚橋2
こんなに大きな堰を水が流れるので、結構な迫力になりそうです。
170317二枚橋3
昭和43年竣工とありますが、
いつ頃まで使われていたのでしょうか。現在はこの橋の南隣を道路が通っています。
170317二枚橋1
もう少し西の方には一枚橋もあり、それは寿安上堰に架かる橋のようです。

小山 下小十文字の馬頭観世音碑

2017 03 21
町道と旧道の交差点にある、と記されています。
家と家の間を通っているのが旧道で、現在は県道に昇格した旧広域農道が
胆沢を南北に走ります。
170317馬2

右の家の角に建っているのが馬頭観世音碑です。
170317馬
  大正十二年 鹿毛三十三才
馬頭観世音
  正月十四日
       施主 吉田巳代吉


鹿毛とは一般的に見られる茶色の馬のようで、かげ と読むそうです。


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