船戸?札堂?の観音堂

2017 03 30
小山の斉藤にあるお社は札堂観音堂。
本尊は馬頭観音で昭和6年の創建です。
その昔はこの前を流れる松ノ木沢を船が通っていてこの場所は船着き場で
人々の休息の場だったと町史はかたります。
170328船戸1
170328船戸6
しかしながらここにある説明板には『札堂』が転じて「ふなど」と呼ばれたという説もあると書いています。
170328船戸2
どっちでしょう?

また、布那土→船戸神=岐の神=久那土神→塞の神→  という解釈もあり
昔は布那土ではなくクナドと呼んだと云った人もいたそうなので、
小山村誌はこちらの説をとっているという記述もありました。
『斉藤』という地名も『さい』は塞ぐの意味で「塞の神」へつながる、
ということからここは境界で悪いものが入ってくるのを防ぐ場所と
関連付けることもできそうです。

そしてこの場所には、明治から昭和にかけて草競馬の馬場があったそうです。
看板にもありますが、
『当時の面影をしるよすがもありません』

お堂の裏手にまわるとたくさんの古碑がありました。
大きく立派な石碑には

戊辰戦死者之碑 とあり、
裏面には
仙台藩佐々備中家臣 三名の名前と

慶應四年八月二十七日 相馬笹町戦死
との文字が刻まれています。

碑は明治二十七年の建立ですので、二十年以上の時が過ぎてから建立されたもののようです。
170328船戸4
170328船戸3
170328船戸5
中には梵字が刻まれた享保年間の古碑も2基ほど並んでいます。
300年前の人々の祈りが石碑という形で現代に残っています。

もりだくさんの斎藤の札堂観音堂でした。

若柳 二枚橋の旧橋

2017 03 24
寿安下堰と中堰にかかっていた二つの橋の総称から、地名となり
明治以降字名となっている。寿安堰大改修によって橋跡になった。
現在もコンクリート製の橋だけが残っている。 と資料には記載されています。
170317二枚橋2
こんなに大きな堰を水が流れるので、結構な迫力になりそうです。
170317二枚橋3
昭和43年竣工とありますが、
いつ頃まで使われていたのでしょうか。現在はこの橋の南隣を道路が通っています。
170317二枚橋1
もう少し西の方には一枚橋もあり、それは寿安上堰に架かる橋のようです。

小山 下小十文字の馬頭観世音碑

2017 03 21
町道と旧道の交差点にある、と記されています。
家と家の間を通っているのが旧道で、現在は県道に昇格した旧広域農道が
胆沢を南北に走ります。
170317馬2

右の家の角に建っているのが馬頭観世音碑です。
170317馬
  大正十二年 鹿毛三十三才
馬頭観世音
  正月十四日
       施主 吉田巳代吉


鹿毛とは一般的に見られる茶色の馬のようで、かげ と読むそうです。


蛸の手の旧道沿いにあった石碑

2017 03 18
胆沢区の蛸の手の交差点の北西角に石碑が三つ並んでいます。
寿安下堰の脇に建っていますが、もともとは旧道沿いにあったものだそうです。
160402蛸の手1
左から申山明神宮、山神塔、南無阿弥陀仏碑です。

中央の山神碑は
   文政七
  山神碑
   四月十二日
 と刻まれています。
160402蛸の手2

左の申山明神宮は分類が『猿山大明神』に関するもので
胆沢区内にわずか2基しか残っていませんが、
そのほか詳しいことが記載されておらず残念です。
   申     文政七
 明  神宮
   山     四月十九日
と刻まれています。こちらも文政のもの。

右の碑には
   明和九年
  南無阿弥陀佛
   八月三日
 の文字。

いずれの碑も建立者の名が刻まれていますが、判読できないようです。
江戸の昔に建立された碑は、平成の今も現存しています。

『蛸の手』の地名は安永風土記にも『蛸の手堰』の記載があるようなので
江戸時代にはすでに地名としてあったようです。
現在も水路と道路とが蛸の手のように広がっていますし、
その様子から地名として呼ばれるようになったと伝えられています。

『何の跡?橋の跡?』のその後...市野々のつり橋

2017 03 12
若柳の市野々、胆沢川沿いにあった柱跡、
2016 11 26 『何の跡?橋の跡?』という記事をアップしました。
昔のつり橋の跡だよと教えてもらいましたが、
この度、そのつり橋の写真をお借りすることができました!!
市野々吊り橋2 (500x323)
市野々吊り橋1 (500x363)
川の右岸はコンクリートの柱ですが、向こう側は木で組まれた柱だったんですね。
こちら側の柱だけが残っていた理由がこの写真をみてわかりました。

ワイヤーで吊っていたようですが、橋げたの部分もずいぶん波打っています。
渡るときはユパユパしたんだべなぁと想像できます。
このつり橋はいつ頃作られたものかは残念ながらわかりませんが、
安永風土記には、屋敷が3件あったことが記載されているし、
安永五年に仙台藩に報告した若柳村内の橋にも『市野々橋』は記載されていることから
江戸時代にはすでにこの場所に橋が架かっていて、
いつの時代にかコンクリートのつり橋になっていったのだろうと思います。
大雨が降ればすぐに流されてしまったのだろうから、
そのたびに作りなおされてきたのかもしれません。

この橋が人々の生活に欠かせないものだったのは、
つり橋の下流につくられた永久橋が完成(昭和48年3月)するまでで
現在はつり橋の柱だけが残ります。
itinonohasi (375x500)
その当時の広報に渡り初めの記事が載っていました。
車も通ることができるコンクリートでできた永久橋となったことは、
地域の皆さんにとって大きな喜びだったんだろうなぁと想像できますね。

それにしても
渡ってみたかったなぁ・・・ユパユパしたつり橋を。

なんなら奥州湖にユパユパしたつり橋をかけて、
恐怖体験スポットにしたらたくさんの物好きが集まるかも!!
どうでしょう?この案は?

ご紹介した写真は、上愛宕の高橋さんからお借りしたもので、
新しい橋ができる頃に撮ったものだろうということでした。
本当に貴重なお写真をありがとうございました。
写真の捜索にご尽力くださったM様にも心から御礼申し上げます。

林の中に熊野社

2016 12 15
青空の朝、凜とした佇まいの赤鳥居をみつけました。
161213熊野社1
うっかり斜めになってしまいましたが(;^_^A

若柳の前田、杉林の中にお堂が見えます。
161213熊野社3
熊野社です。
熊野三山信仰は葛西氏による信仰があつかったことが町史から読むことができます。
161213熊野社2
このお社の境内には馬頭観世音碑が2基、牛頭明王碑が1基、山神碑が1基と
全部で4基の石碑があるようですが、
鳥居の横にポツンと建つこの石碑がそのうちのどれかわかりませんが、
隣に馬がいるので馬頭観世音碑ではないかと想像できます。

石碑に刻まれる字や馬の謎を解くために
近くに行って確認したいけれど道がない、そしてこの雪(´;ω;`)
そしてなによりきっと怪しまれる(T_T) 
注)けっして怪しいものではございません。あたたかく見守ってください(* u.u)) ペコッ

出店の馬頭観世音碑

2016 12 02
出店の細い道沿いにポツンと建っている馬頭観世音碑。
栗毛三十才ということも刻まれています。
161201馬頭観世音1
三十才をそのまま30年と考えていいのか、
馬の年齢をどのように数えるのかにもよります。
馬頭碑にはその馬の年齢も記されているものをたびたび見かけますが、
3才だったり7歳があったり、18才もあれば、三十二才というものもありました。

30年をともに過ごした馬の為に建立された馬頭観世音碑、
と読むのがいいのかもしれませんね。
161201馬頭観世音2
この道は車一台が通れるくらいの幅の舗装されていない道です。
むかしの馬っこ道だったのでしょうか。

二の台の鶴供養

2016 11 28
小山二の台は『鶴供養』とも呼ばれています。
その昔、腕のいい猟人が鶴を撃ってはいけないという言い伝えを守らずに
撃ち取ってしまいました。
すると家族が原因不明の病に倒れ、占ってもらうと鶴の祟りだと言われます。
そこで鶴供養の法要をおこなったところ、家族全員が快方に向かったということです。
そこで浄財を出し合って鶴供養の石碑を建てたという話が残っています。
161125鶴供養1
現在ある鶴供養と刻まれた石碑は昭和62年の建立で
この伝説が町民劇場の題材となったことが刻まれています。

本当の鶴供養の碑については
『昭和になって古城あたりの若者が、芝刈りの帰路、馬荷のバランスをとるために
この碑を片側に積んで持って行ってしまった』という話まで残されています。
161125鶴供養3
161125鶴供養2
この場所には二の台堰に関する碑も並んでいます。

何の跡?橋の跡?

2016 11 26
市野々橋の上流にコンクリートの橋脚のようなものが残されています。
161122跡1
川向こうにも人が歩いてできたような道が続いているように見えます。
161122跡2
市野々のほうに住んでいた人に写真を見せて聞いてみたら、つり橋の跡じゃないかとのこと。
ワイヤーをつっていた柱で、この鳥居なような柱をくぐって川向うに渡っていたと
いうことでしたが、
でもほんとにこんなのが今もあるのかぁ~と半信半疑でしたが、
ほんとに今もあるんですよ。ほんとにつり橋の跡かはわからないけれど。

たしかに今の市野々橋の上流につり橋があったことは地図を見ると確認できるのですが、
どんなつり橋がここに架かっていたのか、わからないんです。
悲しいです。

そして数少ない資料をひっくり返しても、
ほんとにこれがつり橋の跡なのかを確認することもできなかったのも残念でなりません。

もっと多くの人に聞いてみて、事実が判明した際にはまたここで真実を明らかにします。

幅の下の追分碑

2016 11 22
※本日22日(火)正午から国道397号尿前ゲートが閉鎖され、
つぶ沼・栗駒焼石ほっとライン方面への通行ができなくなります。
ご注意ください。



江戸時代の追分碑のようですが、建立の年月日は刻まれていません。
161121追分1
右ハ一の野通り仙北みち
左 衣河通りやま道

と刻まれた道標で、もともとは南東の旧道沿いにあったようです。
161121追分2
いまこの石をみても字が彫られているようには見えなくて、
資料をみてはじめて内容を知ることがやっとです。

迷いそうな分かれ道には道案内板として木材碑や石碑を置いたそうですが、
いまは石碑だけが残っています。
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